カラミティ・ジェーン

Calamity Jane [VHS]

Calamity Jane [VHS]

Calamity Jane (1953) dir. David Butler

ゲイアイコンでもあるDoris Dayの主演作。そもそもCalamity Janeといえば、passing womenのひとりにかぞえられるわけではないにせよ、アメリカの想像力においては西部開拓時代の男装の麗人ならぬ男装のガンマンとして伝説的な人物であり、この映画は映画版のThe Celluloid Closet (1995, dir. Rob Ebstein and Jeffrey Friedman)でもきっちり言及されていた。

基本的に50年代の西部もののミュージカルということで、政治的にはもうひっかかりどころ満載なのだが、しかしたしかにDoris Dayは見事にbutchなイメージだ。映画の途中からは妙にドレスシーンがふえてしまい(それにつれて「これだから女はダメだ」みたいな台詞も頻出して)どうもそこは気になるのだが、前半部でのDoris Dayは、声のだし方、たちいふるまいから、不必要なほどのアグレッシブさにいたるまで(この映画で意味なく銃をぶっ放すのは、基本的にCalamityのみである)、これぞbutchとは言わないまでも、すくなくとも基本がこういう雰囲気のbutchはたしかに今でもいそう、というような説得力。彼女がシカゴでであったKatieに驚嘆し、Deadwoodへ、さらには自分のまもるべき女性として我が家へとつれかえるあたりまでは、きわめてナチュラルにマッチョですらある。

で、ここからはもう完全にこちらの目にバイアスがかかっているのかもしれないが、そういう前半での描写を念頭におけば、CalamityとKatieとの関係はそもそもいわゆる「女の子同士の友情」というよりはロマンチックなそれにつながるべきものとしか見えようがなく、しかもふたりの感情の発展の具合が時間をとってていねいにえがかれているだけに(30分から70分ほどまで、およそ40分間)、プロット上のロマンチック関係の落としどころであるCalamityとWild Bill Hickokとの関係(こちらは、二人の関係性がかわるきっかけを舞踏会のシーンだとかんがえると、そこから「キス」にいたるまで10分ほど)が、なんともとってつけたように感じられてしまう。

いや、とってつけたというのはおかしいのか。CalamityとBillの間につよいつながりがあることは何度も示唆されているのだが、Calamityの過剰なほどの「男っぽさ」のせいで、どうもこの二人の関係は、CalamityとBill、KatieとDannyという二組のヘテロカップルに居心地よくおさまらないのだ。

そもそもこの「キス」のあとでも、町を去ったKatieをつれもどそうと馬にまたがってかけだしたかとおもうと、すれちがったwild Billに行きがけの駄賃とばかりについでにがっつり口づけをしていくCalamityは、良くもわるくもどうしようもなく「男前」であり、「あなたはDannyを愛しているのでは?」というKatieの問いに「そりゃ女の考えってもんだ。やっかいごとにまきこまれるだけだよ。That's female thinking. Nothing will get you into more trouble.」と応えてしまったりする。だいたい、Katieをつれもどすのは伝統的には恋人であるDannyの役割のはずなのに、そのお株をうばってなにやってるんですかCalamity!

そういうCalamityの「男前ぶり」は、KatieとCalamityとの関係性を「ともだち」路線から脱線させそうになっていると同時に、CalamityとBillとの関係をも「異性愛カップリング」からはみださせる、つぎのような疑問をひきおこす。そもそもCalamityって女?男だと思って見るべきじゃない?CalamityとKatieとの関係を、ホモエロティシズムにうらがきされた強い感情的なつながりとみなしうるならば、CalamityとBillとの関係も、まさしくそれと同じ、ホモソーシャルにして強くホモエロティックなものだと考えられるのでは?

ここにおいてCalamityは、Butch lesbianの形象としてではなく、この映画においてえがかれる愛情や欲望の関係性がヘテロホモセクシュアルの安定した分割線にそって配置されることをさまたげる、クィアな形象として機能することになる。

Calamityが"My secret love's no secrets any more."と歌う時、彼女の秘密の愛とは、いったいどの愛なのだろう。この映画がその画面上にあきらかに描き出した秘密の愛とは、どのような愛だったのだろうか。