アネット・メサジェ展@森美術館

『アネット・メサジェ:聖と俗の使者たち』展へ。

六本木ヒルズという場所なのか、それともなんかぬいぐるみっぽいよね?というイメージがあるのか、こども(というより幼児)連れが意外におおい展覧会。しかし、こどもがこんなのみちゃうと、怖くなったり夜ねむれなくなったりしないのかと心配になるほど、ダークな作品がおおい。まあ、怖くなったり夜ねむれなくなったりする作品をみることも経験だよ、ということかもしれないが。

展覧会をとおして最初に気がつくのが、身体の分断というか非統一というテーマ。剥製の鳥や小動物にぬいぐるみの頭をかぶせた作品にせよ、大がかりなしかけで天井からつるされたぬいぐるみのような布製のオブジェが上下するタイプの作品にせよ、身体部位をアップで撮った写真をつあった作品群にせよ、徹底して身体の予期された統一性を拒絶する方向へとむかう。

ただ、個人的にもっともグロテスクにおもえた点は、そのような身体の分断や統一性の破壊から直接に生じるものではなかった。身体ばらばらで死体まがいのオブジェもおおいのだが、それらはスプラッター映画的なグロテスクさというか、アブジェクト的なものを連想させるような、ぐちょっとした、あるいはどろっとした、そういう触感をまったく連想させない。基本的におどろくほどに乾いている。

グロテスクさはどこからくるかといえば、とりわけ布製のオブジェを利用する作品のばあい、それらのオブジェの奇妙な重さからきていたようにおもう。粘液を欠き、そして骨格を欠いた布製のオブジェで強調されるのは、たとえば「関節」からだらりとたれさがる手足や頭である。串刺しにされ、ワイヤーでつるされているその点からぐったりとたれさがるさまは、重力に抗するちからをもたない「肉」の重みをかんじさせる。

身体の表面にも、かといってその「内部」にも還元できないような、重量のある「肉」の表現のグロテスクさ。これは死体のこわさなのかもしれないが、たぶんそれとは違う。むしろ、いきているはずの自分の身体のかかえこんだ物質性(といってはいけないのかもしれないが)、かかえこんだ他者性のようなものからきているような。

あとは、ヴェネチア・ビエンナーレで金獅子賞をとったという〈カジノ〉がよかった。こちらはいかにも〈胎内〉モチーフで、展示されていたインタビュービデオによるとメサジェ自身もそれを意識しているようなのだが、その点については、なんかねーフランスのひとってどうしてそっちが好きだろうねー、みたいな<偏見。

ただ、〈胎内〉をかんたんに〈母体〉に還元せず、なんか微妙にエイリアンシリーズをおもわせる、みょうになまなましいSci-Fi空間をつくりだしているところは、すき。ゆっくりとふきだす風の音とともに赤い布がなみうち、おしよせ、その下で(またしても骨格を欠いた)やわらかい物体がぼんやりと発光している光景には、どこか催眠的なものがある。ざ〜っ、ざ〜っとくりかえされる風の音の「自然さ」をつきさすように、きりきりきりと鋭い音をたてながら、天井からオブジェがおろされてくるあたりの違和感も、非常におもしろい。