たたり


たたり [DVD]

たたり [DVD]

The Haunting (1963) dir. Robert Wise

レズビアンホラーあるいはクィアホラーとして名高い作品だが、これが初見。ホラーが苦手とはいっても昔の作品だし、と少したかをくくって見てしまったのだが、じゅうぶんにこわかった。具体的ななにかがでてくるわけではなく、ほとんどの場合にカメラワークとサウンドだけで緊張感がうみだされていく。

肝心のレズビアンモチーフはというと、これは複数のレベルでおどろくほどはっきりしている。

主役であるEleanorは、長年病気の母親の介護にしばられたあげく、母の死後は姉の家庭で「居場所のない」生活をおくっていて、そこから逃げだし、未知の、おそろしくもあり魅惑的でもあるHill Houseへ、居場所をもとめてやってくる。彼女はそこでミステリアスな官能と自信とをただよわせたTheodoraと出会い、ESPを持つ彼女の容赦のない発言や挑戦的な態度に翻弄されつつも、それまで自分がもとめてやまなかった友情/愛情の可能性をも感じ取って、アンビヴァレントな、しかし強い感情をTheodoraに対していだくようになる。

自分をTheoと呼んでほしいと自己紹介をし、family nameを持たず、結婚はしていないがだれかと一緒に住んでいるらしいTheodoraにレズビアンイメージがつよく投影されていることは疑いようもないし、EleanorとTheodoraとのあいだの緊張の強度は性的なものを喚起せずにはおかない("You revolt me")。

しかしおそらくそれよりもつよくクィア性を感じさせるのは、恐怖の対象であると同時に待ちこがれた「居場所」でもあるHill HouseにあらがいようもなくひきつけられるEleanor自身だ。「Hill Houseがわたしをよんでいる」から、「わたしはHill Houseを離れない」「わたしはここにいたいのだ」「わたしこそが望まれているのだ」へ、彼女はすこしずつすこしずつ自らの欲望をみとめ、それを積極的に主張しはじめる。

Hill Houseへの欲望が明確な形をとりはじめるにつれ、EleanorとHill Houseに滞在しているそれ以外のひとびととのあいだには亀裂がうまれ、Eleanor自身の安全のために彼女をたちさらせようとする他の人々に対して彼女をひきとめるのは、The Houseそれ自体のひきおこす超常現象ではなく、「Hill Houseはわたしのものだ(Hill House belongs to me)」と宣言するEleanorの欲望である。そして、介護要員としての人生しかしらなかったEleanorが、その欲望をつうじて「ようやくなにかがわたしにおきようとしている(Something at last is really really happening to me)」ことをみとめ、そのよろこびが欲望への恐怖をうわまわるとき、EleanorはHill Houseの住人の世界へ移り住んでしまう。

もちろん、このプロットに典型的なレズボフォビア(あるいは女性の欲望への嫌悪)をよみとることは可能だ。しかし、Eleanorが彼女以外の登場人物の側からHill Houseの側へと境界線をふみこえていくのであり、そして〈フォビア〉が前者から後者へとむけられるものであれば、観客が前者の側にたって後者の領域へとフォビアを向けることを妨げるしかけもまた、この映画にはちりばめられている。

映画冒頭ではDr. Markawayがしめていた「語り手」の位置がEleanorの登場と同時に彼女にうつり、彼女は「死後」もそのまま語り手をつとめる。したがって観客は一連のできごとに立ち会ったそれ以外の登場人物の側ではなく、なかばEleanorの側に巻き込まれた形でラストを迎えることになる。

とりわけ、死の直前にEleanorが「ようやくなにかがわたし自身におきようとしているのだ」という独白とそれにつづく恍惚ともあきらめともつかない表情とをともなってHill Houseへの欲望をうけいれるシーンと、ラストの'We who walk here walk alone'というEleanorの台詞とは、EleanorがHauntする欲望の主体であることをつよく示唆していて、これは、その二つのシーンにはさまれた部分で示される、当初の語り手であるDr. Markawayによる分析(Hill Houseが彼女を欲したのであり、かわいそうなエレノアの混乱した頭はその誘惑に抵抗できるほど強くはなかったのだ)の正当性というか信用を完全に損なってしまう。この点は、その場でのTheodoraの台詞によって強調されている。Dr. Markawayの台詞をうけて彼女は「かわいそうじゃないわよ、彼女が望んだことだもの。いまやこの家は彼女のものでもあるんだわ。今の方が幸せかも」と言うのである。

Eleanorの死を、のろわれたHill Houseに魅了されたあげくの悲劇とみなすのではなく、彼女自身がのぞんだ幸福な結末かもしれないとみなすこと。Theodoraのこの台詞は、ある意味では、映画の中盤でのEleanorとTheodoraとの会話を変奏したものだといえるかもしれない。Theodoraが、Hill Houseでの緊張と恐怖からすこしずつ正気をうしないつつあるようにも見えるEleanorに「あなたが正気で世の中の残り全部が狂っているなんて、信じられるわけないでしょう?You expect me to believe you're sane and the rest of the world is mad?」と問いかけると、Eleanorは「どうして?世の中には辻褄のあわない、不自然なことばかりよ。(…)たとえば、あなたも。Why not? The world is full of inconsistencies. Unnatural things. (...) You, for instance.」と応じる。Eleanorが移り住んだ「あちらの」世界が狂気と不幸と死の世界であり、彼女が立ち去った「こちらの」世界が正気と幸福と生の世界であると、簡単にきめつけることはできないのだ。

なんといっても、死んだはずのEleanorは、映画のラストにおいてもまだ語っているのである。視覚的な表象可能性の領域を越え、しかしその「声」を遠くに聞き取りうるものとして。この映画は、彼女を死んだものとして表象するのではなく、むしろ、観客のいる「こちらの」世界では近づき得ない、知覚しえない、あるいは表象しえない領域に存在しているものとして、表象していると言うべきだろう。

いまのところこれ以上はまとまらないので、ここまで。

P. Whiteの論文があったはずなのでそちらも読んで、まとめられれば書き足す予定。