The Watermelon Woman

The Watermelon Woman (1997) dir.Cheryl Dunye

Go Fish!に続いてGuinevere Turnerの出演作。今見るとこちらの方がかわいいと思ったり。役自体はちょっと微妙ではあるのだが。

映画のテーマは「歴史をつくる」ということ。歴史を掘り起こすのではなくて、掘り起こしうる形で歴史が残されていない(アクセスできない)ならば、つくるしかない、と。これが「ドキュメンタリー」ではなく「スプーフ・ドキュメンタリー」であることこそがポイントなのだ。とてもアメリカ的な欲望であると言う気もする。

Watermelon Womanは実在しない、と映画は最後になって告げる。けれども、「そうか、実在しないのか」と思うわけにはいかないのだろう。なぜなら、だからこそWatermelon Womanをつくるしかなかったのだ、とも映画は主張するのだから。

もちろん、その跡づけを見つけることの難しい、消え去った過去を、「作り出す」ことで置き換えるという手順には、さまざまな暴力があり、さまざまな問題がある。それでも、消え去った過去を消え去ったままにしておけるのはその過去が消え去ることに何の痛痒も感じない人々(その過去が消え去ることに直接的/間接的に加担し、あるいはそこから利益を得る人々)であり、その人々はそのような特定の過去の消去に基づいて「現在」を作り出し、あらたに何かを消去し続けてるのだから、現在において消し去られないために、Cherylは消え去ってしまって取り戻せない過去を「存在したはずの過去」として提示しなければならないのだ。

そこには、黒人レズビアンの消去の問題がもちろんまっさきにあるわけだけれども、同時に、interracialな関係の問題も同じくらいの重要性をもって描かれているのではないかとも思う。白人側、黒人側、双方に存在するある種の純血主義、そしてその二つの純血主義が等価ではないこと(どちらも自分の殻に閉じこもってるという点で同じじゃないかとは決して言えないこと)、それをこの映画はきちんと描き出していると思う。

個人的には、Guinevere演じるDianaがしばしば黒人を性愛の対象にしていることがわかった時点でCherylがドン引き、という設定は、やっぱり寂しいとは思う。もちろん、中流階級出身であきらかにお金持ちラディカルなDianaの、自らの特権性を自覚していない(ように見える)嫌らしさということが描かれていて、その上での「黒人フェチ」の微妙さというのは、共感できるところも多い。だが、その上でそのような黒人フェチの欲望それ自体を否定するのではない(もちろん無批判に肯定するのでもない)方向というものがあるはずだとも感じていて、そちらを見てみたいとも思うのだが、この映画のテーマとはずれるので、それはわがままというものかもしれない。(そんなの白人監督が撮れよ、ということかもしれない<うわ、こういうのって本質主義だろうか)