「パラレル・ワールド もうひとつの世界」
東京都現代美術館にて。鑑賞メモ。
一番おもしろかったのはDaniel GuyonnetによるPhenix(2003)というアニメーション作品。人物がひたすら解体>統合をつづけていくのだが、そのよどみのない軽さと、同時に、その軽さによってもたらされるある種の容赦なさとに、目がひきつけられる。解体においても統合においてもなんらの感情をもしめさない単純化された人物が、しかしけっしてとまることなくそのサイクルをつづけていく様子は、解放的でもあり、そしておそろしくもあり。フェニックスにはちがいないのだけれども、「不死鳥」のイメージから通常連想されるようなドラマチックさはまったく見られない。その怖さは、このアニメーションがノンストップでリピート再生されている(ように思えたが、もしかすると10回リピート分くらいみていればちがったのかも)ことによって、さらに強調されていたようにおもう。フェニックス/シシュポス。
それから、Michel Blazyの作品。タイトルを失念。春雨をつかった巨大なけむしのようなもの。カタログによると、「成長や腐敗によって展示中に変化する素材を使い、経過する時間を共有するようなインスタレーションで知られる」人だとのこと。全体にカビっぽい作品ではあったけれども、乾燥春雨って腐敗したりカビたりするんだったろうか。ただ、全体になにかこう、まったくオーガニックとはほど遠い色合いでありつつ、妙に有機的な感触をあたえる作品ではあった。まったく理解できているとは思えないけれども、忘れられない。
内藤礼の「通路」。展示室の中に部屋のようなものが設置されていて、その中に入るのだが、入れば「何か」が見えるという感じではない。縦長の部屋の中には何もなくて、手前と奥に開口部と窓、そして開口部と窓のない残りの二つの壁(こちらが長い方)に手すり。ある意味、まさしく通路っぽい。窓のある壁に水道の蛇口があって、水が流れている(ほんとに流水?と思ってすごい見たけど、液体が流れているのはたしか)。よくわからない。部屋が直方体なのかどうかもわからなくて、中にいるとどうも奥の天井が低いような気がしたり、手すりが床と平行でないようにおもったりするのだが、でも実際のところどうなのかもわからない。とにかく平衡感覚がすこしゆらぐ。水が流れているだけで何もないので、時間の感覚もすこしゆらぐ。ひとが「いる」場であるはずの「部屋」のようなところが、同時に、ひとがそこを通り過ぎていく場である「通路」でもあって、そしてそれは物理的にも少しきしんでいて、けれどもそのきしみの中に「いる」感じ。
肝心のユーグ・レプは、よくわからない。個展に行くか、あるいはもう少し予備知識がないと駄目かも。でもちょっとキャンプ。フラット感が。