Lost and Delirious (2)

視聴おわり。やっぱりHeavenly Creaturesの方が個人的には好きだけれども、こちらもよくできた映画かもしれない。ただ、この言い方が好まれないのを承知の上で、でもやはりこれは同性愛を描いた映画ではない、というのが正しいのだろうと思う。Heavenly Creaturesが同性愛をも描きつつ、けれどもおそらくその最大の力はそこにあるわけではなかったとすると、Lost and Deliriousは、そもそも同性愛を描いた映画ではない。女の子を愛した女の子を描いた映画であるのは間違いないのだけれども。

もちろん、それは「同性愛という枠組みにとらわれない」というようなことではなくて、単純に彼女達の間にある愛が、ただ偶然に同性に向けられた愛ではない、カテゴリーとしての「同性愛」なのかどうか、この映画だけからは全くわからないからだ。

ただ、「私は彼女が好きなの!私たちはレズビアンじゃない!」と少女が繰り返すこの映画において、ある愛の形やその強度と同時に、明確な「同性愛嫌悪」が描き出されていることは、たしかだろうと思う。映画がホモフォビックであるというのではなく、むしろホモフォビアを描き出そうとしているという点においては、この映画はHeavenly Creaturesと共通したものを持っている。

つまり、彼女達が同性であることは彼女達の愛のあり方においては特に重要性を与えられていないし、愛の強度がそこから来ているようにも見えないのだが、にもかかわらず、彼女達の愛が引き裂かれるのはそれが同性に向けられた愛であり、従って愛としては認められないと考えられているからだ、というところは、間違いようもない形で、示されているのだ。

それでも、途中で二度出てくる『十二夜』の引用は(一度はまさにラストシーンにおいて引用される)、彼女達の愛が同性に向けられた愛であり、けれども同性愛ではないかもしれず、それにもかかわらず後戻りのきかない形で同性に向けられた愛であるということを、告げているのかもしれない。

しかし、おそらくそれ以上に、それは、映画の中では言葉としては出てくるものの(「女々しく恋人を奪われたままではいない」というような)、視覚的にはほとんど明示的になることのない(「私の髪を切ってよ!」という衝動的な、そしてちょっとありきたりの、発言の中にかろうじて残っている程度)、一種のトランスジェンダリズムへの欲望の痕跡を示しているのだろうとも思う。

ヴァイオラはセザーリオになることによってどれだけの自由に手にしたのだったか。そして彼女は決して「異性装」という一つのイレギュラーなフェーズから、幸福な帰還をすることがなかったのだ。

その意味では、これは同性愛を描いた映画としてではなく、トランスジェンダリズムを描き損ねた映画として、理解すべきなのかもしれない。