No Country for Old Men

No Country for Old Men (2007) dir. Ethan and Joel Coen

原作を読んでいない上に、途中かなりクルーシャルなはずのシーンを理解しそこねたように思うので、全く間違えているのかもしれないが、とりあえず見てきたのでメモをしておく。いずれにせよ、ネタばれ多少はありです。

第一印象としては、とても良くできた映画だけれども特に新しさはないし、特に心を打たれるようなところもない、というものだった。シェリフのBellにとって殺し屋の Chigurhは殆ど理解を超えた、「昔とは違う」種類の悪を体現しているのだが、そういう「理解を超えた、こちらの論理を超えた悪」という形象は、それほど珍しいものでもない。

そんなのレッド・ドラゴンのシリーズでブームは終わっているじゃないかと思ったところで、そうか、とようやく気がついた。鈍いことこの上ない。

ジジェクじゃないけれども、シリーズ(に通常含まれないものの)の最初の映画化作品であるマン・ハンターにおいては、「犯人」と「刑事」は一体化しているのであって、その一体化を通じてのみ「刑事」は「犯人」を知り、そして「犯人」に追いつく。あるいは、「刑事」と「犯人」とは同一化の欲望を互いに抱きあう。あれ?これはジジェク的には説明がされていたんだっけ?読み直さないとダメだな。

いずれにせよ(強引)、これはある意味刑事モノ、追跡モノの定番であって、だから「オトコがオトコを追いかける」一対一の追跡劇は必然的にホモソーシャルなものに、時にホモエロティックなものになる。Infernal AffairsとかFace/Off とかは、そのエロティシズムを強烈に描き出して成功したわけで。

ところが、No Country for Old Menがそういう定番と違っているのは、「刑事」が「犯人」を追いかけない、というところだ。BellはMossを助けようとはしているようだが、Chigurhについては、殆ど意図的なほどに「知るまいとする」。Bellの行動で目に付くのは、シェリフとして許されるかぎりは余計なことには巻き込まれないようにしよう、距離をおこうとする態度であって、Mossを助けるための手段は講じるものの、犯人を理解し、追い詰め、捕まえようというそぶりは、明確に欠落している。

Chigurhの扱う道具についても、Bellはどうやらそれが何であるのかを、少なくとも意識下においては理解しているように見えるにもかかわらず、その理解を明確に言語化して掴み取り、それをもとに何らかの行動を起こすということはない。事件の発端となった虐殺の現場の検証に同行しないかという誘いも、Bellはあっさりと断ってしまう。唯一の例外がMossの殺された部屋に戻るところなのだが、このときもそこにChigurhがいたことを理解するにもかかわらず、Bellは金を取り戻したらしいChigurhを追いかけようとはしない。

No Country for Old Men. 昔風のやり方では、今の犯罪はわからない。自分と同じシェリフであった父親や、他の先輩シェリフ達の生きてきた世界の論理では、もうかなわない(outmatched)。そう考えたBellはそこで踏みとどまり、シェリフの職を辞す。

もっともそんなBellのある種のノスタルジーに対して、先輩保安官のEllisは、理解のできない悪、この場合は暴力と言うべきかもしれないが、それは今に始まったことではないのだと指摘するのだが、Ellisの言葉は同時に、そのような「理解できない暴力」への対処法においてBellはまさしく先輩シェリフ達の生きてきたやり方を踏襲しているのだということを、明らかにする。

車椅子に乗ったEllisは、自分を撃った犯人がもし刑務所から出所していたらどうしたかと聞かれて、こう応える。「どうもしなかっただろう。いまさら何かをしても意味はない。失ったものを追い求めても意味はない。出血をとめて生きていくしかない。」 You can't stop what's comin.

やってくるものを理解するのではなく、受けた傷の手当をしてやり過ごす。

伝統的にはシェリフという仕事は、Chigurhを理解することで、あるいは彼を捕まえるという「治安回復」の手段に訴えることで、Chigurhの暴力によって安定した世界にあけられた穴をうめ、失われたものを取り戻すはずの役回りとして、描かれてきたものだろう。それに対してEllisが言っているのは、穴は常に開いていたのだから埋めようとするなということだ。出血だけ食い止めて、穴と共に生きていくしかないのだ、と。

そして、穴を埋めようとしないことで、失われたものを取り戻そうとしないことで、BellはChigurhとの同一化を回避し、理解できないものになることなく、生き延びる。夜道を進んでいった先には、父親が焚き火をして、光と暖かさとをととのえて、待っていてくれる、という夢を見ながら。

理解しえない暴力を理解するまいとすること。暴力に奪われたものを取り戻そうとしないこと。それによって理解しえない暴力をふるう「他者」への同一化を回避しようとすること。

Bellのこの態度は、暴力の連鎖を断ち切るものであるといえるのかもしれない(Ellisの言葉はその方向を指し示している)。その意味でこれをポスト9・11の一連の映画として位置づけることはできるだろうと思う。9・11に象徴される暴力の連鎖へのある種の疲弊感なり拒絶の身振りなりがあらわれた映画として。

しかし同時に、とりわけそのように見たときには、それでいいのだろうかという気持ちも残るのだが。ポスト9・11の映画として、理解できない暴力をふるう他者との断絶によって生き延びるということ、理解できない暴力をふるう他者をまえにして自らが変わらないということが、どういうことなのか、その点を考えなくてはいけないような気がするのだが、どうにもまとまらない。