Breakfast on Pluto


プルートで朝食を [DVD]

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Breakfast on Pluto (2005) dir. Neil Jordan

二回目の視聴。良くできているなとは思うのだが、アイルランド系統の話がきちんと理解しきれていないのでそこでJordan作品ではいつも躓いてしまう。

The Crying Gameの時にも思ったのだが、何となく表面的には、クィアが前面に出てその背後にアイルランドの話があるようでもあるのだが、どうもその実、アイルランドの流れを受け入れやすくするためにクィアセクシュアリティを持ってきているというのか、そういう気がして仕方がない。

もちろん、アイルランド問題を際立たせるためにクィアセクシュアリティを利用するとすれば、コロニアリズムの問題を際立たせるべく女性のセクシュアリティを利用するのと同じで、それはそれで批判の対象にはなるだろうが、The Crying GameやBreakfast on Plutoにあるのは、それとも違う。

どちらかと言うと、争いに巻き込まれつつクィアな「愛」(Breakfast on Plutoの場合はクィアな「生」か)を貫く人物を通して、Ireland/Englandの間に存在する暴力の問題をあまりにも簡単に乗り越えてしまっているのではないか、というのか。Breakfast on Plutoで言ったら、キトゥンのクィア性がIreland/Englansのどちらにおいてもseriousで暴力的な(マッチョな)政治的言説(と身体的暴力)への抵抗になっていることは確かなのだが、そこで軽々と双方への抵抗を成功させるキトゥンの描写においては、seriousで暴力的な政治的言説を呼び起こした権力構造はとりあえず棚上げされる、というのだろうか。

確かにクィアな生というのはIreland/Englandの境界線の内/外にきれいに収まるものではないだろうし、だから境界線を超えるものでもあるだろうし、一つの境界線の絶対性を揺るがす形象としては適当でもあるのだろうが、しかし。

このあたり、まだ全く言語化しきれないのだが。とにかくJordanのクィア映画はどことなく不穏当だ。The Crying Gameが怪しすぎたので先入観があるのかもしれないが。