犯人の死を願わせてほしい


朝日新聞のコラム「素粒子」における「死神」記述に対して犯罪被害者遺族団体が抗議文を送ったとのニュース。

13人の死刑を執行した鳩山邦夫法相を「死に神」と表現した朝日新聞の記事について、「全国犯罪被害者の会あすの会)」は25日、東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見し、「死刑執行を望む犯罪被害者遺族も死に神ということになる。侮辱的で感情を逆なでされた」とする抗議文を、同日付で朝日新聞に送ったことを明らかにした。
 抗議文で同会は「法律に従って執行を命じたにすぎない法相を非難することは、法治国家を否定することになる」と批判。記事の意図などについて同社に回答を求めた。(「死に神」に被害者団体抗議=「侮辱的、感情逆なで」Yahoo!ニュース6月25日18時0分配信 時事通信) 

素粒子というのはそもそも朝日新聞の中でもとりわけ保守的でオヤジマッチョなコラムだった印象がある。まあ、死神はその通りだけど、そもそも素粒子って死刑反対を唱えていたっけ?違う?じゃあ死神を飼ってるアンタや私はそれと同じくらいかそれ以上に悪質ってことにならんかい、という意見はウェブ上ではあちこちで読むことができる。Couldn't agree more.

でもって、法律に従う法相を非難することがその特定の法律を批判することだったとして(この等式自体ちょっと雑すぎるが)、特定の法律を批判することと法治国家の否定との間にはマリワナ海溝より深い断絶がある。いくら何でも言うことがむちゃくちゃすぎる。

同じくそんな簡単に等式が成立するまいと思われるのが、「死刑執行を望む犯罪被害者遺族も死に神ということになる」という部分。死刑執行を支持する(自国が採用する死刑という制度に反対しない)という点では、もちろん被害者遺族ではない日本国民の皆さんと同じく死神なのだが、「死刑執行を望む」という点で死神になるわけではあるまい。

はらわたが引きちぎられるほどに死刑を望んだとしても、死刑制度が存在していなければ死神にはなりようがないのだから。

「被害者遺族の気持ちを考えろ」という言い方がある。遺族の立場になってみろ、と。遺族の立場に「なって」みることはできないが、遺族の立場になったらどうだろうかと想像してみると、死刑制度には到底賛成することができない。私は犯人の死を願いたいからだ。

家族が大病をして生死の境を彷徨っていた時、その人と同じような年格好の人間が街を歩いているのを見るだけで憎らしくて仕方がなかった。のうのうと健康そうに歩いていやがってこの野郎、お前よりよっぽどましな人間が死にかかっているのに、お前が死ねばいいんだ、と思った。全く根拠のない八つ当たりである。それは非常にはっきりわかっていたが、それでも何かおさえようのない怒りがとどまることなくわきあがってくるのだった。

いまだ可能性に過ぎない喪失が自分の中にそれほどの憎悪や怒りを引き起こすことに私は驚き、たじろいだ。もしその喪失が現実になったとき、自分の憎悪や怒りがどこまで続くのかと、怖くもなった。結局その人は本当に幸運に一命を取り留めたが、怒りの記憶はにがく重苦しく残った。

私はそれまで何の根拠もないままに、自分はいわゆる「犯罪被害者遺族」になったとしても犯人の死刑を望むことはないだろう、と思っていた。死刑に反対する遺族がいることも知っていたし、そもそも死刑制度に反対である自分もまた、どれほど犯人を憎らしく思ったとしても、死刑を望むことはないだろう、と。とんでもない話だ。

私はおそらく犯人を殺したいと思うだろう。殺したいくらい憎い、ではなくて、本当に心底殺したいと、死んでくれと、思うだろう。

大切な人の命を奪った直接の原因が、病気ではなく、明確に断定できる個人なのだ。犯人が死ぬことが失われた命を取り戻すこととは全く無関係であり、私の怒りや憎しみがあくまでも私のものであって、死んでしまった人のものではないことをわかった上で、それでも私は怒りと憎しみをおさえられないだろう。

私の場合、その怒りは、「犯人を死刑にすることで同様の犯罪を抑止する」とかなんとか、そういう何らかの社会的必要とは全く無関係なものだと思う。その怒りは、本質的には、喪失をひきおこした犯人に対するものですらなく、もう二度と回復されることのない喪失そのものに対するものだろう。

喪失の理不尽さに対する「私の」その怒りを、私はおさえられないだろう。その怒りは、少なくともある特定の期間にわたって、私の判断も、私の信念も、私の倫理も、「私」をかたちづくってきたあらゆるものを、ふみにじるだろう。それでも、私はそのことに怯えつつ、その怒りを怒りつくしたいし、おそらくそうしなくては生きていけないだろうと思う。

だからこそ、私は死刑制度に反対する。

「私」を超える怒りがやってきたとき、私はその怒りを思うさま怒りくるいたい。私の喪失と根源的には無関係な犯人の命を少しでも心配することなく、ふみにじられた「私」の判断や信念や倫理に反する形でその怒りが利用されるかもしれないなどという恐れを抱くことなく、喪失に慟哭し、世界を憎悪したい。

そう、私は死神にはなりたくないのだ。死刑制度のある国に生きていれば我々はみな死神ではあるけれど、それでも、死刑制度のある国で犯人の死を心底願う時、私はおそらく死神にさらに一歩近づいたような気分がするだろう。私は、そんなエクストラの苦さを余分に抱き込むのは嫌だ。

私がもし被害者遺族になって、もしそれが私にとって必要なら、私に犯人の死を願わせてほしい。全身全霊で呪い、怒り、憎ませてほしい。私を死神にすることなく。