金井淑子「フェミニズムと身体論」


金井淑子フェミニズムと身体論ーリブからやおいへ」、金井淑子編著『身体とアイデンティティ・トラブル―ジェンダー/セックスの二元論を超えて』pp.19-48.


身体とアイデンティティ・トラブル

身体とアイデンティティ・トラブル


どこからどうはじめれば良いものやら、金井氏とは色々な意味で見ているものも用語法も違うのであろうとしか思えない。

リブからやおいへという議論は、1−3節。「わたし」の欲望の存在の主張に根拠をおいた「女」の性あるいは欲望の解放と、それが引き起こしうる規範的な性の制度のかく乱、というところでつなげているらしい。「やおい」にそういう可能性があることはおそらくもう大分以前から広く了解されていることでもあるだろうと思うのだが、しかしだから何だと。今更これだけをざくっと解説されても、リブ論にもフェミニズム論にもやおい論にもならないような。だいたい「どの」やおいで、「どの」フェミニズムなのか。

個人的に衝撃度が高かったのは4節以降。

やはり男の身体は妊娠しない。射精する身体・妊娠させる身体ではあるが。そのことがもつ、女という主体、男という主体の自己形成―この場合の主体は、男という身体、女という身体に自己形成するといってもよい―に関係していないといってよいのだろうか (中略)ミニズムがとってきたのは、身体の経験の差異を問いとして立てること自体が「本質主義」であり意味のない問いだとする、「構築主義」の理論的立場を基本とするものだったといってよいだろう。(32)


二番目の文の「関係していない」の主語が何だか全くわからないのだが、おそらく、「妊娠する/しない、射精する/しないという身体の差が主体形成に関係するのではないか」と言いたいのだろう、と推測。妊娠も射精もある程度成長してからの出来事なので、最初期の主体形成にはそれほど関係しない「かもしれない」が、主体は一度成立したらそれで固定するというものではないらしい以上、どこかの時点で主体形成に関係する可能性は、勿論あるだろう。

しかし、妊娠する身体が「女という主体」に、射精する身体が「男という主体」に、滑らかに接続しないことも事実である。金井氏はあたかもフェミニズムが妊娠する身体や射精する身体を論じること自体を「本質主義」とみなしてきたかのような書き方をしているが、それっていつの「構築主義」なんだか。「構築主義」系のフェミニズム理論が主張してきたのは、射精や妊娠といった身体の経験の差異を安直に「男女の」経験の差異と等値はできないだろうということであり、それだけのことにすぎない。

そもそも金井氏は、氏が批判対象としているらしい「構築主義」(そしてこの最右翼にJ.バトラーなどを位置づける)を、意図的にかそうでないかは知らないが、大きく誤解している。金井氏が目指そうとしているのは、

ポスト構造主義のバトラー的ジェンダー論ではどうしても無いとされる身体の物質的与件性―女性の月経や男性の射精といった経験―、構築主義が死角化してきた身体をとり落とさないで、身体を論ずること(36)


である。それでは、ここでの「ポスト構造主義のバトラー的ジェンダー論」「構築主義」は、いったい具体的に誰のどのような理論をさしているのだろうか。金井氏によればどうやらこれらの議論が主張しているのは次のようなことであるらしい。

身体は空っぽの器なのか。コートラックのようなものか―上に着せ掛ける服装によって、男性・女性にジェンダー化されるようなものなのか。果たしてそう言いきってよいのだろうか。(33)


きょうび、まともにとりあげられている理論家でそんなことを言っている人がいるだろうか?少なくとも、バトラーが「ジェンダーパフォーマティブに構築されるからこそ常に反復されなくてはならない」と述べる時、そこでは「空っぽの器」として存在する安定した「原型身体」は想定されてはいない。むしろそのような「原型身体」が生存可能ではないからこそ、ジェンダーは常に反復されなくてはならないのだから。しかし、金井氏はバトラーの議論をほとんどまともには読んでいないように思える。

また、細谷は言う。八十年代的な助成額の身体論をめぐる常識的な用語で言えば、バトラーのいう身体的パフォーマティブで作り出されるもの(中略)は、あくまでもジェンダー化された身体であり、セックスとしての身体ではない。そして「単にジェンダーとしての身体」は妊娠できない、と。(中略)そこで残されたものは、地球と同程度の自然性をもった身体ではないか。(41)


これは金井氏が細谷実氏の議論をひいてバトラーの限界を指摘し(ようとし)ている箇所であり、細谷氏の論文を読んでいないのでこれが細谷氏の議論なのか金井氏の誤読なのかがわからないのだが、少なくともこれだけ見れば、またしてもめちゃくちゃだとしか言いようがない。そもそも「身体的パフォーマティブ」「セックスとしての身体」「ジェンダーとしての身体」というのが何のことだかわけがわからないのだが、いずれにせよ、基本から行くと、バトラーが言っていたのは、性化された身体というのはつまりはジェンダー化された身体だ、ということだ。ジェンダー化されていないセックスというのはありえない、。しかし同時にそのことは、たとえばジェンダー化されなければ子宮は存在しないとか、ジェンダー化を通じて卵巣はできるとか、そういうことではない、とも彼女は何度も念を押している。要するに、ジェンダー化されるからこそ子宮とか卵巣とか言うものが「セックス」を構成することになる、という話なのだ。金井氏の言葉を使うなら、「身体の所与性」(これを物質性と言ったりする人もいるわけだが)を考えるときに、所与の身体=自然=「セックス」=『女性の月経/妊娠」や「男性の射精」、という等式にほいほい乗っかるのは違う、ということに過ぎない。

あれ?この等式にほいほい乗っかっている論文がここに。