『身体とアイデンティティ・トラブル』2

金井淑子編著『身体とアイデンティティ・トラブル―ジェンダー/セックスの二元論を超えて』所収のその他の論文についてメモ。

海妻径子「フェミニズムは男性身体を語れるか―男性身体の周縁化、抵抗の規律化、流動化」pp.49-68.

他に依存することのない自律性を尊重する「マッチョな」男性性規範においてではなく「精液的流動性」においてこそファリックな力が見いだされる、という話。

「主客未分離」とか象徴界審級「以前」あるいはそれを「くぐり抜ける」ものを模索することがフェミニズムの重要な企てであるという議論には、私は賛成しない。というわけで、それが重要なフェミニスト的企てであるという了解の上で「精液的流動性」として男性身体を語ることがフェミニズムたりうるのか、それともそれはファリックな権力作用の別の形象なのか、と問われても、ちょっと乗れない。でもそこはまあ意見の相違であって、論文としては比較的面白い。

ただ、精液的かどうかは別に、漏れ漏れの(あるいは犯されやすい)男性身体というのはある意味伝統的に了解されていたものであり、最近の事象ではないだろう。で、そういう漏れ漏れの身体が男性優位のイデオロギーと結びついたりファリックな規範を強化するということも、これまた伝統的に観察されてきた事であるような。イーストウッドの身体を参照。勿論その両義性に規範の変更可能性を見て取ることは可能だが。というわけで、このあたりは海妻氏による具体例の検証を読んでみたい。

細谷実「美醜としての身体―美醜評価のまなざしの中で生きる」pp.69-94.

「美醜ハラスメント」という用語が余りにも曖昧。誰かの容姿の美しさや有能さを述べることがすでにハラスメントである、というのはどうなんだろうなあ。勿論美醜や能力を評価することは、ただの「客観的事実表明」ではなく、常に特定の評価基準を裏書きする効果を持つのだが、それをすべて「ハラスメント」と言えるかどうか。この議論だと、会社の上司が部下を「醜い」と評することと部下が上司を「醜い」と評することの差は前景化されないし、「美醜」の問題が伝統的になぜとりわけ「フェミニズム」の問題だったのかも重視されない。もちろん「あえて」そこを飛び越えて美醜概念そのものの残酷さに言及することは可能だが、だとすればそれは「ハラスメント」という言葉で語るべきなのかどうか。

本文自体はあまり役に立たないアドバイスのようなもの。かなり力を抜いて書いている気がする。これを論文と言うのかどうか微妙。美醜イデオロギーへの「対処法」を模索するのはかまわないが、美醜へのとらわれを相対化しましょうって、それはどうなの。

美醜評価の意味合いを再調整することで対処する、「個人的な問題として処理(89)」するというのも、それ自体絶対にダメだとは思わないのだが、結局のところ「個人的な意識」が既に一定のイデオロギーの中で構築されている以上、そのイデオロギーへの働きかけと個人的な意識の変革は不可分だし、しかもイデオロギーの中で構築されている意識の中でどのようにしてイデオロギーとの距離を確保しうるのかというところがおそらく一番の問題なわけで、そこに踏み込んでくれないと説得力がない。

三橋修「におう身体」pp.119-142

タイトルに期待して読んで残念な気持ち。これも「エッセー」(日本語の意味での)だよなあ。三島のあたりはそれでも面白いのだが。体毛と匂いの関係が明確に言語化されないままに絡み合って議論が進んでいるのが、ある意味著者の「体毛観」「におい観」をかいま見させて興味深いとは思った。

宮崎かすみ「同性愛者の身体、あるいは心―クラフト-エビングとオスカー・ワイルド」pp.155-178

途中まではそれなりにinformativeだと思う。ただ、「身体の表面から内部の本質を見抜こうとする近代的権力に特有のベクトル(172)」にあらがって「彼らに身体を読ませてはならない(172)」「人間の表面は、身体ではなく衣服なのだ(172)」と考え、「内面に何らかの意味を探ろうとする視線を遮り、内面を防御するため(171)」の衣服(表面)の重要性を強調するのがワイルドの戦略であったとすると、それは結局表面/内奥の二項対立を保持しており、「名前こそすべてだ(175)」とは矛盾することになる。

だからこそ本論文では最後に「魂」が回復してしまうのだろうとは思うのだが、そこはむしろワイルドの限界なり矛盾として捉えるべきではないのだろうか。「人間に本質というものを認めるのならば、それは脳ではない。心臓にあるのだ。(中略)だから心臓は―そして心と魂も―、権力の、無骨で無粋な視線の侵入に対する、最後の砦なのである(177)。」としてしまうと、ただの後戻りなようにも見える。そこがワイルドなんだ!魂の自律性というのを信じていたんだ!ということならそれでも良いのだが(『サロメ』なんて確かにそういう感じかも)。個人的には、あーワイルド残念な感じだねー、と思うだろうけど。