サイレント・ランニング

Silent Running(1972) dir. Douglas Trumbull

ピクサーの最新作Wall-eの元ネタはこれだという話を読んでいて、ああ、あの映画だ、と思い出して、再視聴。

むかしテレビで一部だけみたことがあって、ストーリーもろくにおぼえていないのに、宇宙にうかぶ緑地の異様さ(木々の背後がみなれた空ではなくなるだけでこれほどまでに光景がちがうのか)と、黙々とその緑地の手入れをする不格好なロボット(ヒューイ&デューイ)、そして息のつまるような孤独感だけが、まざまざと記憶からたちあがってきたのだった。

今になってしらべてみたら、監督のDouglas Trumbullは2001: A Space OdysseyだのBlade Runnerだのも手がけたビジュアルエフェクトの専門家らしく、太陽のかわりに電球で照らし出されたあかるいのかくらいのかわからない緑地がまっくらな虚空にぽっかりとうかびあがっているシーンの、本当に足もとがぬけおちるようなよるべなさの感覚というのか、あれはたしかにそれらの作品に通じるものがあるのかもしれない。

地球最後の森林がどうこうとか、正直そのあたりのメッセージはかなり単純すぎるし、そもそも物語としてはたいしたことはおこらない。主人公の行動もかなり唐突で(いきなり殺すかよ、みたいな)、そういうところは映画としては欠陥なのかもしれない。けれども同時に、物語として背景や心情が書き込まれきらないうちに行動をおこしてしまう、そこまで思い詰めなくてもよさそうなところで思い詰めてしまうという主人公だからこそ、この作品のもつ孤独感がきわだつわけでもあるのだろう。

けれども観客に「孤独」というものをもっともつよく感じさせるのは、宇宙にひとり「森林」と残されるロボットのヒューイだ。ヒューイは自分が孤独だということは知らないのかもしれない。そもそも動植物には囲まれているので、孤独だというのは違うのかもしれない。それでもあのラストシーン、まっくらな宇宙のやみをどこにむかうあてもなく漂うドームのなか、人工照明のもとで黙々と植物に水をやりつづけるヒューイのイメージは、「孤独」とよぶのが一番しっくりくるような不安とかなしみとを、私の中にかきたてる。ヒューイの感じる孤独感ではなくて、すべてがどこにもとめつけられておらず、つながっていないことによる、圧倒的なよるべなさ。孤独という状況。

ちなみに、Wall-eは予告編をみる限りでは、たしかにヒューイ/デューイの面影もあるものの、この目、この首のながさ、この自己紹介の口ぶり(うぉ〜、り〜)、そしてこの手つなぎそぶりは、E.T.だなあ。