連想せよ:「クィアという概念は具体的に誰も救わない」

この問題提起は非常にしばしば耳にするところで、基本的にはまったく同意しないのだが、しかしなぜ何度もおなじことを言われるのかを考えると、「救う」という言葉でおたがいに想定していることがらの範囲がちがうのだろうという気がする。

そんなことを考えていて思い出したのだが、ジェンダー論とかフェミニズムとかで文学や映画、あるいは絵画などをあつかっていると、贅沢品扱いというか、女性の生存にとってほんとうに大事なこともやらずになにをあそんでいるのか、という批判をうけやすい。このときの「生存にとって大事なこと」も、たぶん自分とはかんがえていることがちがうのだろうという気がする。

衣食住の保証とか身体の安全を脅かされないこととか、ひとが生きていくうえで大事なことはいろいろある。

「飢えたひとを前にしても芸術に意味があると言えるのは、そのひとが飢えたことがないからだ」という言い方があるが、そんなことが言えるのはそれを言ったひともまた飢えたことがないからだろう、という反論を読んだことがある。

自分は飢えたことはあるが、それは自分で引き起こした飢えだったので、いやおうなく飢えたひとにとって、実際のところ、芸術が二次的な贅沢品にすぎないのかそうでないのかは、わからない。芸術であれ、信仰であれ、哲学であれ、どこかつねに(いのちとはかかわらない)贅沢品である側面もありつつ、生存をささえる大事なことでもあると、自分では思っているのだが。

ただ、芸術であれ、宗教であれ、哲学であれ、それらを贅沢品であると名付けるものに対して抵抗することが、時にいのちがけであったことは、間違いない事実であろう。ということはつまり、それらがそもそも「贅沢品」におさまらない何かの力をもち得る(もっていたことがある)ということなのだろう、とも思う。

そもそも、贅沢品というのは、そんな贅沢をする余裕のないひとこそが、享受すべきものだ。「贅沢品」を享受するのにふさわしくない立場(階級であれ、ジェンダーであれ、人種であれ、経済力であれ)のひとが「贅沢品」を享受することには、限定的ではあれ、常にラディカルな力がひそんでいる。

「パンがないならケーキを食べればいいのに」といわれて「ケーキとかいってんじゃねえよ、パンをよこせよ」とかえすのは、アリだと思う。

でも、「パンがないからこそケーキを食ってやるわよ」というのも、自分としては、嫌いではない。

approach of the apocalypse
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参加していた企画が終了。

多少なりとも気持ちと労力と時間はつかったのだが(つかったので)、あらゆる点で苦い後味と後悔とがのこる。とりわけ、時間がたつにつれて、企画そのもののなりゆきにたいしてより、じぶんの能力および訓練の不足にたいして、憤りがこみあげてくる。参加をお願いしてお誘いした方にたいする申し訳なさと。

自分を食いつぶして得るところのすくなそうな企画を見分ける目をもたなくてはいけないと、以前に信頼する友人に注意をされたことを思い出す。それだよ。

Better Than Chocolate

Better Than Chocolate [DVD]

Better Than Chocolate [DVD]

Better than Chocolate (1999) dir. Anne Wheeler

以前見たのは間違いないのだが、ほとんど覚えていなかったので、再視聴というより気分的にははじめて見る映画。

で、なんでほとんど覚えていないのか、わかった。基本的にはとても気分良く見られるのだが、気分良く軽く見られすぎて、印象が流れてしまうのだ。ちょっと良くできたテレビドラマのおもむき。

運命の恋人!みたいなのにいきなり出会って仲良くなる冒頭からはじまって、とにかくかわいくて軽くて気分の良いロマンチック・コメディではあるのだが、それを超えて「引っかかってくる」部分がない。全体に非常に安易。

ただ、それは必ずしも悪いことではないとは思う。余りいらいらせずに楽しめるレズビアン・ロマンチック・コメディがあったって良いわけで、だから、10年近く前のこととはいえこの作品が結構な人気を博したのも理解できる。主役の二人も、人物造形がたりない気はするものの、ロマンチック・コメディとして見れば、ラブラブぶりがかわいらしいので良いのかもしれない。

離婚してきたママが、娘のセクシュアリティに戸惑いつつ、トランス女性のお友達に感化されつつ、少しずつ元気に幸せになっていくのも、安易といえば実に実に安易なのだが、気持ちは良い。バイのお友達があっけらかんとバイで、それが特に何も問題にならないのもいい。トランス女性のお友達ががっつりと意中のダイクの心を射止めるのも、筋書きとしてはなにそれどこからそういうことに、という驚愕の強引さではあるけれども、後味はいい。

親へのカムアウトの問題にはじまって、検閲の問題だの、レズビアンからのトランス・ハラスメントの問題だの、母娘の世代間交流(衝突を含めた)だの、ホモフォビックな暴力の問題だの、いろいろな問題に少しずつ触れているのに、そのどれもがどうもきちんと描ききれていないというか、教科書的なお行儀の良い扱いで終わっているのが、つまらないといえばつまらないのだが、しかし、そういう教科書的なお行儀の良さすらなかなか手に入らないことを思えば、これは貴重だ。10年前の映画なんだし。

2008年の段階でレズビアンを描いた映画として評価しようとすればそれほど高くは評価できないのかもしれないのだが、ロマンチック・コメディというジャンルものだと思えば十分以上に楽しめる、という感じだろうか。

遅筆

Be seeing you
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遅筆だ遅筆だとは思っていたのだが、それにしてもたかだか2000字強の書評に三日以上かかるとは。たいしたことを書いたわけでもなし、こんなもの数時間で書けよと思う。自分に。これはほとんど職務遂行能力の欠落ではないのか。ブログに書評を書き散らすのは、訂正も追加もできるしまとまりもつけなくていいが、そうはいかないし。

しかし自分書評下手すぎる。どう読んでも興味がわかないだろう、あれ。売れてほしい本だけに非常にくやしい。

とにかく一つ終了。授業もそろそろ終わってきたので、まあどうにか。後大きい仕事が一つ。

そういえば自分がゲイならハッテンバがあるから相手が見つかるのにと言った異性愛フェミニストもいたけど

Vogue Homme Internatioanl
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女性の地位が確立してきて、キャリアウーマンでも専業主婦でもよくなってきた。しかし男性は稼ぐのが基本。男性は女性に比べれば受け入れられる幅が狭い。(中略)女性強者は男性弱者を養えと思う。(「秋葉原通り魔殺傷──「ある意味、バッシング万歳です」:OhmyNews!


赤木智弘氏の発言を目にする。実は氏の書いたものを読んでいないので、単にインタビューの編集が悪いのかもしれないが、やれやれ。

女性強者は男性弱者を養えの意味が良くわからない。社会保障制度の話であればジェンダー化せずに「経済的強者が弱者を」という話になるはずなので、おそらくこれは専業主夫させろという話なのではと推測。

専業主婦(あるいは主婦)の座を確保しようとする女性はそれなりの大きな賭けを伴う投資をしている(しばしばそれを強く促される)ことが多いと思うのだが、男性にも同様の投資をさせろということなのだろうか。

専業主婦を目指す女性は、多大な時間的・金銭的投資などなどを経て、しばしば心身の双方にストレスを溜め込みつつ、設定された時間内に「養われ先」を探す。成功しなかった場合、投資された時間や金銭はもちろん、ストレスを受けた心身、切り捨てざるを得なかった諸々のスキルなどの回復は著しく困難になる。そういう賭けを強いられているという点は、女性も男性も同じ(現状では多くの場合男性は「養う側」になるための賭けを強いられるというだけ)。

「養う側」に向かない男性が「養われる側」に転身することが難しいように、「養われる側」に向かない女性が「養う側」としてパートナーを探すことも、難しい。女性の場合、「養う側」としてやっていけるだけの社会的成功を得るために、なぜか「養われる側」に要求される諸スキルが上乗せで要求される(そうでなければ「受け入れ」られない)ことも多いのだが、それは別の話か。

気になるのは、「養われる側」の位置を確保するのも、それはそれで大変だということ。若さだ美貌だ「愛され」性質だ心根だ気遣いだ癒しだ笑顔だ家事だ料理だ、云々。しかも下手すれば「養ってやってる」とか言われるし。結構なハードルですよ。嘘だと思ったらやってみたらいい。だからこそ「養う側」だけしか選択できない側(男性)ではなく「養われる側」だけしか選択できない側(女性)の方からまず「おいおいちょっとどうにかしなくてはなりませんよ」という主張が出てきたのだろうし。

女性弱者を「養う」男性強者が長い間要求しつづけてきたように、女性強者が男性弱者を養うとしたら、同じように稼ぎがないなら、たとえば若くて見目麗しくて頭も性格も良くて癒し系で気も利いて女性のわがままも聞いてくれて、という男性から売れていく可能性は、多分にある。赤木氏は自信があるんだろうけど。

というわけで女性強者が男性弱者を(専業主夫として)養うことで総体としての男性弱者がうれしい思いができるようになるわけではない。当然の事だ。こちらの賭けでは負けそうなのであちらの賭け、というのではなくて、負けたときの回復を著しく困難にする形での賭けを強いられることそれ自体が問題だろう、とフェミニズムは言ってきたのだが、この人は何をしたいんだろう。

とはいえタイトルのこころは「同じくらい駄目」。

追記:あ、本でも書いていて、さすがにきちんと批判もされているのか。すっかり見落としていた。「いちヘルパーの小規模な日常」

『身体とアイデンティティ・トラブル』2

金井淑子編著『身体とアイデンティティ・トラブル―ジェンダー/セックスの二元論を超えて』所収のその他の論文についてメモ。

海妻径子「フェミニズムは男性身体を語れるか―男性身体の周縁化、抵抗の規律化、流動化」pp.49-68.

他に依存することのない自律性を尊重する「マッチョな」男性性規範においてではなく「精液的流動性」においてこそファリックな力が見いだされる、という話。

「主客未分離」とか象徴界審級「以前」あるいはそれを「くぐり抜ける」ものを模索することがフェミニズムの重要な企てであるという議論には、私は賛成しない。というわけで、それが重要なフェミニスト的企てであるという了解の上で「精液的流動性」として男性身体を語ることがフェミニズムたりうるのか、それともそれはファリックな権力作用の別の形象なのか、と問われても、ちょっと乗れない。でもそこはまあ意見の相違であって、論文としては比較的面白い。

ただ、精液的かどうかは別に、漏れ漏れの(あるいは犯されやすい)男性身体というのはある意味伝統的に了解されていたものであり、最近の事象ではないだろう。で、そういう漏れ漏れの身体が男性優位のイデオロギーと結びついたりファリックな規範を強化するということも、これまた伝統的に観察されてきた事であるような。イーストウッドの身体を参照。勿論その両義性に規範の変更可能性を見て取ることは可能だが。というわけで、このあたりは海妻氏による具体例の検証を読んでみたい。

細谷実「美醜としての身体―美醜評価のまなざしの中で生きる」pp.69-94.

「美醜ハラスメント」という用語が余りにも曖昧。誰かの容姿の美しさや有能さを述べることがすでにハラスメントである、というのはどうなんだろうなあ。勿論美醜や能力を評価することは、ただの「客観的事実表明」ではなく、常に特定の評価基準を裏書きする効果を持つのだが、それをすべて「ハラスメント」と言えるかどうか。この議論だと、会社の上司が部下を「醜い」と評することと部下が上司を「醜い」と評することの差は前景化されないし、「美醜」の問題が伝統的になぜとりわけ「フェミニズム」の問題だったのかも重視されない。もちろん「あえて」そこを飛び越えて美醜概念そのものの残酷さに言及することは可能だが、だとすればそれは「ハラスメント」という言葉で語るべきなのかどうか。

本文自体はあまり役に立たないアドバイスのようなもの。かなり力を抜いて書いている気がする。これを論文と言うのかどうか微妙。美醜イデオロギーへの「対処法」を模索するのはかまわないが、美醜へのとらわれを相対化しましょうって、それはどうなの。

美醜評価の意味合いを再調整することで対処する、「個人的な問題として処理(89)」するというのも、それ自体絶対にダメだとは思わないのだが、結局のところ「個人的な意識」が既に一定のイデオロギーの中で構築されている以上、そのイデオロギーへの働きかけと個人的な意識の変革は不可分だし、しかもイデオロギーの中で構築されている意識の中でどのようにしてイデオロギーとの距離を確保しうるのかというところがおそらく一番の問題なわけで、そこに踏み込んでくれないと説得力がない。

三橋修「におう身体」pp.119-142

タイトルに期待して読んで残念な気持ち。これも「エッセー」(日本語の意味での)だよなあ。三島のあたりはそれでも面白いのだが。体毛と匂いの関係が明確に言語化されないままに絡み合って議論が進んでいるのが、ある意味著者の「体毛観」「におい観」をかいま見させて興味深いとは思った。

宮崎かすみ「同性愛者の身体、あるいは心―クラフト-エビングとオスカー・ワイルド」pp.155-178

途中まではそれなりにinformativeだと思う。ただ、「身体の表面から内部の本質を見抜こうとする近代的権力に特有のベクトル(172)」にあらがって「彼らに身体を読ませてはならない(172)」「人間の表面は、身体ではなく衣服なのだ(172)」と考え、「内面に何らかの意味を探ろうとする視線を遮り、内面を防御するため(171)」の衣服(表面)の重要性を強調するのがワイルドの戦略であったとすると、それは結局表面/内奥の二項対立を保持しており、「名前こそすべてだ(175)」とは矛盾することになる。

だからこそ本論文では最後に「魂」が回復してしまうのだろうとは思うのだが、そこはむしろワイルドの限界なり矛盾として捉えるべきではないのだろうか。「人間に本質というものを認めるのならば、それは脳ではない。心臓にあるのだ。(中略)だから心臓は―そして心と魂も―、権力の、無骨で無粋な視線の侵入に対する、最後の砦なのである(177)。」としてしまうと、ただの後戻りなようにも見える。そこがワイルドなんだ!魂の自律性というのを信じていたんだ!ということならそれでも良いのだが(『サロメ』なんて確かにそういう感じかも)。個人的には、あーワイルド残念な感じだねー、と思うだろうけど。